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企業市民としての歩み

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企業市民としての歩み

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第13回 労使はこうしてトヨタをつくりあげた

企業城下町

 日本が高度成長の道をひた走りに走り出した昭和30年代半ばころから「企業城下町」という言葉がよく聞かれるようになった。

 企業城下町の定義をウィキペデイアで引いてみると「特定の一社の事業所や工場などが自治体における産業の大部分を占め、その企業によって住民が主たる労働機会を与えられることでその企業の盛衰が都市の盛衰に直結するような都市を指す言葉。」とある。
 トヨタ自動車の本社がある豊田市は、誰がみてもその典型だろう。

 トヨタは豊田市に本社はもちろんその経営基盤の多くを集中している。それを、豊田市も愛知県も理解し、側面から支えてくれている。これはトヨタの大きな強みでもある。

 しかし、拳母(ころも)町が豊田市になった昭和34年ころからかなりの間、トヨタ自動車とその社員と市民の間には少なからず摩擦があった。今日ではそれは克服され、トヨタ自動車は、豊田市の企業市民として確たる存在になったが、その背景には、トヨタ労使の様々な努力の歴史がある。

トヨタ自動車拳母工場

 豊田喜一郎氏は、昭和8年に豊田自動織機の中に自動車部を設置し、自動車生産の道を本格的に歩み始めた。喜一郎氏は、同じ年の11月に拳母町の中村寿一町長の工場誘致の提案を請け、拳母町南部の論地ヶ原という緩やかな丘陵地に、後に本社工場となる拳母工場の建設を決めた。

 拳母工場は昭和13年11月に竣工し、GB型トラックの生産を開始する。この年の従業員数は4065人、生産台数は年間4615台であった。
 当時の従業員はほとんどが地元出身者であった。この頃のトヨタは地元の会社であり、会社と地域が摩擦を起こすことはなかった。

「ゆたか会」の発足

 トヨタが大争議を経て、朝鮮特需で復興していく昭和33年頃までは、従業員数はまだ5000人程度であり、ほとんどが地元出身者だった。

 初代委員長の江端氏は、「大争議で1600人の首切りを受け入れざるを得なかったが、ほとんどの従業員は地元出身者だったから、会社を辞めても、農業をしたりしてしのげる者が多かった。」と述懐していた。確かに、その頃のトヨタは、「おらが町の工場」であったのだ。

 しかし、昭和33年に元町工場が生産開始、生産台数は毎年5割近い伸びを示し、従業員も昭和40年には2万人を超える。

 人口3万7000人余りの豊田市(「おらが町」の拳母町は昭和34年に豊田市に改名された)で、そのように多くの労働者が採用できたのは、一つには、東北地方や九州などからの集団就職が、愛知県にも及んでいたこと、今一つは昭和29年頃のエネルギー源転換による石炭不況、それを受けた昭和34年の炭鉱離職者臨時措置法の施行により、主に九州から大量の炭鉱離職者が東名大地方に押し寄せ、トヨタも多くの炭鉱離職者を受け入れたという事情があった。

 そのような背景から、トヨタの2万人を超える従業員の半分近くは、九州、東北地方出身者で占められるようになった。会社は社宅や寮を作って受け入れたが、文化や価値観の違う三河地方で、かつ、工場の昼夜交代勤務という労働形態で働く人たちが、地域に馴染んで生活していくことは簡単ではなかった。

 そこで、労働組合として、トヨタの社員による地域の親睦団体として「ゆたか会」を立ち上げることにした。ゆたか会のスポンサーは労働組合であったが、各地域ゆたか会の会長は会社の課長以上の人に担ってもらった。
 ゆたか会は、懇親旅行、物資の共同購入、トヨタ出身の市会議員を通じた「暮らしの相談」などを行い、地方出身で孤立しがちな社員たちの日常生活をサポートし、頼りになる存在となっていった。

工場の夏祭り

 一方会社にも社員急増の悩みがあった。トヨタの従業員数が、2万、3万と増え、地方出身者が多くを占めるようになるに従い、「おらが町の工場」のころに比べれば、会社の一体感を保持することが難しくなっていた。
 従業員の団結力、人間関係の絆を強めるため、会社は、様々なスポーツ競技の社内大会を行ったり、夏には工場単位、寮単位で夏祭りなどの行事を開催した。

 一方、トヨタでは社宅は豊富であったが、生活者として根付いてもらうために、労使で住宅積立制度を作り、早くから「持ち家」を持つよう導いた。
 豊田市内や岡崎市には次々と団地ができ、多くのトヨタ社員が持ち家をして、社宅から移り住んだ。団地においても、ゆたか会の絆は功を奏し、地域組織として発展していった。

 トヨタに勤めれば、仕事から日常生活、レジャー、地域活動まで、「トヨタの人」がまとまって、心配なく生活できるしくみが出来上がっていった。

地域との摩擦

 従業員には、労使の作り上げた安全網に守られ、豊田で暮らすことに一定の安心感が生まれていた。しかし、トヨタが巨大になってくると、社員がそうやってまとまることが、地域の人たちに違和感を与えるようになってきた。

 トヨタは昼夜二交代勤務だから、通常勤務の人たちとは生活リズムが違う。昭和47年頃までは会社の週休日は一日だけだったから、日曜日は休息日であり、トヨタ社員は自治区の行事などには参加のしようもなかった。せめて奥さんだけでもと地域が望んでも、その妻も会社と組合が囲い込んでいた。地域の人たちの不満は募っていった。

 トヨタは従来から市会議員を10名ほど出して、地域生活向上の一端を担ってきたが、その市会議員に、「トヨタは自治区の行事に出てこん」「地域の祭りにも冷たいもんだ」という声が届くようになった。これを聞いた労働組合は、地域あっての企業であるのにこれは由々しき問題だと考えた。

「夏まつり」の廃止、「ゆたか会」の解散へ

 問題意識を持ったトヨタ労組は、地域政治担当の副委員長から、会社の労務担当常務の磯村巌氏にこの声を届けた。磯村氏は即決で「それなら、夏祭りはやめよう」と言われた。それは、トヨタの飛躍期にあたる昭和60年頃のことであった。

 豊田市の前身である拳母町の勇壮な「拳母祭り」にトヨタの社員が繰り出すようになった。
 また、この頃から、トヨタ創業のころからの社員が定年を迎え、「地域で"間に合う"(「役に立つ」の方言)」人たちが自治区の役員に迎えられるようにもなってきた。トヨタ社員は次第に地域住民として溶け込んでいった。

 一方、労働組合も地域の声を無視できなくなってきていた。「ゆたか会」は社員の日常生活の基盤を支える親睦組織であったが、一朝選挙となると、その絆を活用して、自民党の後援会に対抗するような勢力となっていた。

 しかし、地域のトヨタ社員は、「会社丸抱え」といわれることで、時に疎外感も味わうようになる。労働組合としては、そういう組合員のまた裂き状態を放置はできないと、平成2年に「ゆたか会」を解散した。

企業市民としてのトヨタ

 トヨタが成熟期を迎える平成6年。豊田章一郎氏は経団連会長に就任。経団連で「1%クラブ(利益の1%を社会貢献に使う)」を創設したり、愛知で開催された世界博覧会の会長を務めたり、社会との共生を強く意識した行動をされた。

 これは「会社は社会のためにある」というトヨタの理念、理想を具現化したものだったが、トヨタが日本一の足場を固めたからこそなしえたとも言えよう。

 一方、労働組合は結成45周年を記念して、新しい組合会館を建設した。工場の外に土地を借り、地域の方々にも来てもらえるレストラン、スポーツクラブ、コンサートホールを備え、その名を「カバハウス」とつけた。建設から20年、今では地域の人たちの憩いの場となっている。

 私は、カバハウスが完成した年にトヨタ労組の役員から自動車総連の役員になったが、数年後、豊田市に帰ったところ、会社が国道の整備に社有地を提供したことなどにより、会社周辺の道路事情が格段に良くなり、見違えるような景観になってきていたのを嬉しく感じた。トヨタがやっと企業市民になれたと感じた瞬間でもあった。

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