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労使関係の原点 昭和25年大争議(中)

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労使関係の原点 昭和25年大争議(中)

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第3回 労使はこうしてトヨタをつくりあげた

全国自動車労働組合準備会(全自)の結成

 1946年に企業ごとに結成されたトヨタ、日産、いすゞ、ダイハツなどの組合は、当時のまるで革命前夜のような社会労働運動の波にもまれていく。

 この年、8月には、のちの総評の前身となる総同盟、政党色の強い産別会議が結成される。自動車の各組合もこの頃、国産車で生き残っていくためには国の産業政策を自動車に向かせる必要があるとの共通の思いが各組合にあり、産業別組合を結成する方向へと進んでいく。

 しかし、産別といっても自動車労組には、当時労組を闘争の拠点に革命を目指していた共産党などの政党に支配されることは避けるべきだとの考え方が主流であった。

 そこで、1947年に全国自動車労働組合準備会(全自)を発足、中立の立場で、全国各地域に支部の結成を進めた。トヨタ労組は全自コロモ支部となった。全自の運動目標は、組合員の生活確保だったが、そのためには自動車の生産を復興しなければ、と経営者団体との協議を行うことにも力が注がれた。

 この頃、政党の活動も活発化しており、日本の労働運動はどんどん政治色、闘争色を強めていた。全自も次第に職場闘争体制を強化し、戦う姿勢を前面に出すようになっていく。

 この頃、日産労組は1947年に、東大卒で労働運動に飛び込んできた益田哲夫氏を3代目委員長に選出する。益田氏はそこから強いリーダーシップで、1947年全自の委員長となり、1953年に日産闘争が第2組合の登場で終息し,全自が解散するまで、全自の委員長として剛腕を振るうことになる。

 一方のトヨタは、生産復興闘争と、賃金闘争に明け暮れるが、江端初代委員長の言によれば、「闘争のたびにうまく行かないと、お前はやめろ、俺が今度は委員長をやる」というような風土があったから、次々とリーダーが入れ替わり、益田氏のようなカリスマが現れることはなかった。

「なべ底景気」下の苦難の道

 日本経済は終戦直後のGHQによる統制経済撤廃の方針の下で復興に邁進した。トヨタは挙母工場で、まずトラックの生産を開始、1945年12月には民需転換が許され、乗用車の生産も開始した。

 トヨタは戦中統制で国のもとにあった配給会社が解散されたのを受け、神谷氏が全国の配給会社を回って、トヨタのディ―ラーを設立して歩いた。この先見の明が功を奏し、自動車を作れば売れる体制はいち早くできた。

 しかし、肝心の原料、部品が手に入らず、生産台数は伸びなかった。そうした中で戦地から帰還した従業員を抱え、彼らを養っていくために、喜一郎氏は、瀬戸物の生産や、竹輪の生産、なども考えたという。先輩方に聞くと、工場では売れるものなら何でも作ろうと、当時、どの家庭でも不足していた鍋や釜を作って売ったらしい。

 一方で、喜一郎氏は自動車生産拡大の道を模索し続け、1947年には、米軍にトラックや乗用車を納入する道を開いた。しかし、猛烈なインフレ下、自動車の需要は伸びず、この年の生産は4,000台(乗用車54台)あまり、翌'48年は7,000台(乗用車21台)、'49年は1万台まで生産拡大したが、「ドッジライン」下のなべ底不況で、自動車は売れず、代金回収もできず、会社は、給料の遅配や引き下げを労働組合に提案するようになる。

 特に1949年になると、会社赤字が膨らみ、年末に当時のお金で2億円が不足することが見えてきた。トヨタ最大のピンチであった。喜一郎氏以下の経営陣は銀行への融資依頼、鉄鋼など原材料会社に支払の繰り延べ、原材料の供給継続を頼んで回った。しかし、結果は思わしくなく、会社は倒産の危機に直面する。

 会社は当時6,000人いた従業員の削減も視野にいれていたが、喜一郎氏はなんとか解雇者は出さないで乗り切ろうと、他の経営陣の心配をよそに、経理担当の役員を連れて資金繰りに奔走した(このあたりのことは「小説日銀管理」(KKベストセラーズ)あるいは、TBSで2014年に放映されたドラマ「リーダーズ」が詳細に描いている)。 

政治闘争と一線を画した自動車労組

 自動車の各組合は結成当初から、インフレ下で「食えない」組合員にどうやって食べていける賃金を獲得するかに、注力をせざるを得なかった。

 一方、総同盟、産別会議は、政党の影響下で、1947年2月にゼネストを構え、職場闘争を強化し、職場の怒りを政治闘争に向けようとした。しかし、ゼネストはGHQの中止勧告で中止に追い込まれ、芦田内閣の政令201号により公務員のスト権が奪われると、労働運動の政治闘争化の波はスローダウンしていく。

 

 
 実は、全自の中核となる日産、トヨタ、いすゞ、三菱の4組合は、どこも、労働組合が政治闘争に走ることには消極的であったが、この背景には、自動車の組合結成が「工職一体」であったという事情があったと考えている。

 すなわち、トヨタ労組も他の組合も、結成時からリーダーに大学卒のエリート達が入っていたわけだが、アメリカのモータリゼーションを知っていた先輩達は、日本が生産を復興し、技術力を磨かなければ、日本の自動車会社はアメリカに飲み込まれてしまうと考えていた。

 トヨタ労組の初代委員長の江端寿夫氏が委員長会議で私に、「自動車産業は日本の基幹産業だから、政治闘争などしているときではないと考えていた」といわれたことは印象的だった。

 そういう考え方があったから、自動車各組合とも、賃上げ交渉をする団体交渉の場とは別に経営側と「経営協議会」の場を持っていた。その場で労組も生産復興の施策を会社に訴えていた。トヨタ労組では1948年には経営合理化委員会にも参加して生産拡大への協力を表明している。

 この当時のことを振り返って、トヨタ労組で1950年の闘争時の副委員長やその後の委員長を務めた岩満達巳氏は私に、「当時は、会社がつぶれても労働組合は生き残るなどという人間もいたが、私らは組合員の生活を守るためには、まずは会社経営をちゃんとさせることだと考えていた。

 それを「御用組合」という人間もいたが、私らは経営者の言うなりになる組合じゃないという自信があったから、そんなことをいわれても平気だった。今の労働組合はまさか本当の御用組合じゃないだろうな」といわれたものだ。

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