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労使関係の原点 昭和25年大争議(下)

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労使関係の原点 昭和25年大争議(下)

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第4回 労使はこうしてトヨタをつくりあげた

トヨタ労組の闘い 「首切り」はしない「覚書」締結

 トヨタ労組としては、会社の危機が分かっていたから、自分たちのためにも生産への協力を惜しまない覚悟があり生産復興に努力していた。しかし、日本経済が落ち込む中で、賃金は上がらず、組合員の生活も苦しく、労働組合の運動は先鋭化せざるを得なかった。

 全自(全国自動車労働組合準備会)はトヨタ、日産、いすゞがスクラムを組んで、「賃金の確保」(引き上げではなく)「人員削減阻止」のための闘争を強化していくことになる。

 特に昭和24年になると「ドッジライン」旋風が吹き荒れ、デフレが加速、トヨタでも在庫が積み上がり、資金ショートが起きていることは組合でも認識できた。トヨタの組合リーダー達は自動車製造に同じ思いを抱く喜一郎氏が首切り回避のために資金繰りに駆け回っていることも知っていた。

 この中で、いち早く経営が音を上げたのはいすゞで、昭和24年9月に生産台数削減、4,000名の従業員のうち、1,400名の希望退職者募集を組合に提案した。

 全自は結束してこの提案阻止闘争を組み、12月には24時間ストを決行するが、希望退職者が募集以上に殺到して、闘争は敗北する。

 同じく12月にはトヨタから分かれた電装労組でも400名の人員削減が提示され、トヨタ労組は危機感をもった。そして経営との条件闘争を強化し、暮れも押し詰まった12月20日に、会社からの1割賃下げ案をのむ代わりに首切りはしないことを明確にした覚書を締結することに成功する。

トヨタ、「日銀管理」へ

 一方の経営側は、昭和24年の年末を乗り切るために、喜一郎氏らが、銀行の協調融資を懇請して回っていたが、住友銀行などが応じず、万策尽きたかと思われた。しかし、喜一郎氏が最後の砦と、すがる思いで助力を要請した日銀名古屋支店長は、トヨタが倒産したら愛知県の経済が崩壊すると危機感を持ち、トヨタ支援を引き受けた。

 しかし、銀行団の協調融資をまとめる代わりに、日銀が示した条件は喜一郎氏にとっても、労働組合にとっても厳しいものであった。

 それは、生産台数の3割削減、販売部門の切り離し、それに見合った人員削減の3つであった。年末を控え、倒産の危機を回避するためにはトヨタにはこれをのむしか選択肢はなかった。

 日銀はトヨタに対し、当面2億円、半年間で5千万円を4回、合計4億円の融資を保証した。トヨタは当面日銀管理の会社となった。

「希望退職」の受け入れ

 年が明けると、労働組合は会社が希望退職者をリストアップしている動きを知り、その阻止と組織の引き締め、闘争の強化を図る。
 全自は6月に産業危機突破決起大会を設定し、益田委員長らもトヨタ支援のため愛知に駆け付けた。

 4月22日にはトヨタは「賃金支払い、人員削減粉砕」を掲げ、24時間ストを決行するが、経営からの歩み寄りは得られなかった。経営も、予定どおりの融資を受けるためには、日銀との約束履行の期限が迫っていた。

 そして、ついに、4月30日、会社は、1,600人の人員削減を含む再建提案を組合に示した。組合はストライキで抵抗した。しかし、もともと過剰在庫にあえいでいた会社にとってストライキはむしろ援軍であり、譲歩を見せなかった。

 労働組合は、人員削減はしないとの条項を明記した「覚書」をもって、「解雇差し止めの仮処分」を名古屋地裁に申し立てた。しかし、この覚書の会社側署名は、労働組合法が定める記名押印または署名ではなくゴム印に会社印であったことから、「無効」であるとされ、仮処分申立は棄却されてしまう。

 会社の役員会では、覚書が無効であったとの報告を聞き、これで労働組合に再建策を飲ませることができると、歓喜の声が上がったという。しかしこのとき、生産担当の役員であった豊田英二氏は、「書面は無効でも約束は約束ではないか」という意見を出した。

 これは容れられなかったわけだが、このときの豊田英二氏の言葉は、労働組合にも静かに伝わることとなり、私達後輩にも語り伝えられるところとなった。

 この役員会を受け、会社は組合に対し、指名解雇を受け入れるよう通告する。同時に、喜一郎氏はその代わり、自分も社長を辞めることを表明した。

 この会社の強い意志を受け、覚書の後ろ盾も失った労働組合は、「船が沈むよりは、降りてもらう人を選んでもらおう」と、泣く泣く会社提案の受入を表明する。

 トヨタはこれで、銀行融資を受け、ギリギリで危機を乗り越えたわけだが、このとき仮に喜一郎氏の辞任の決意がなければ、労組も受け入れがたく、会社はもっと荒れたかもしれない。

「経営者は腹を切れ」

 トヨタ労組の中にも「徹底抗戦」を主張する者はいたらしい。しかし、一人のリーダーだけに引っ張られることのない集団指導体制を築いていたことと、組合リーダー達からも信頼の厚かった喜一郎氏が責任を取って辞任したことが、労働組合に、最後の一線で、船を沈めてはならないとの決断をさせたと、私は感じている。

 このときの断腸の思いは、当時のリーダーの魂に染み込み、ことある毎に私達は、「あの思いを再び誰にもさせてはいけない。」と教えられた。幸い船を下りた人たちの中には、その後、朝鮮戦争特需が降ってわいたことにより、会社に復帰できた人もいた。

 私は当時の委員長であった弓削誠氏から、「希望退職に応じた者のうちの百何十人は職場に残れるような合意もできたし、業績が戻ったら今回の退職者を優先して採用するとの条項も勝ち取っていたから、朝鮮特需は「神風」のようだった」との率直な感想も聞いた。トヨタ労使は「運」にも恵まれた。

 話は現代に飛ぶが、2008年のリーマンショックの後遺症で、電機産業など大手の会社が、万を超すリストラをした。このとき内閣府の顧問をしていた奥田元トヨタ社長は、「経営者はリストラするなら腹を切れ」といわれた話が有名である。

 日本では従業員は会社にいわば人生を託している。経営者はそのことに責任をもつべきである。

 どうしてもリストラをしなければ会社が存続できないところまで追い込まれてしまったのであれば、経営者もその責任を取ってやめるべきだ、ということだ。
 労使に根底のところで信頼がなければ、会社を良くしていくポジテイブなモチベーションは維持されない。

 そうしたものを欠いた状態でリストラして一息ついても、いずれまた危機が訪れることになる。リストラに会社の生き残りを賭けるなら、経営者も責任を取るべきだ、ということだろう。

 この発言をした奥田氏の念頭に、自らの辞任で大争議を終焉させ、会社を立ち直らせた喜一郎氏の姿があったはずだ。

 その思いを心にしまっているのは奥田氏だけではない。歴代トヨタの経営者も労働組合も、共に、大争議で経験した辛苦を後世に語り伝えてきた。そして「二度と首切りは出さない、させない」との思いで、今日まで互いに切磋琢磨してきたのである。

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