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労使関係の原点 昭和25年大争議(上)

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労使関係の原点 昭和25年大争議(上)

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第2回 労使はこうしてトヨタをつくりあげた

豊田喜一郎の夢 ― 自動車製造に懸けた思い

 トヨタ自動車の原点は、豊田式自動織機の発明で世界に名を馳せた豊田佐吉氏の「障子を開けてみよ、外は広いぞ」との遺訓に象徴される、チャレンジ精神であると思う。

 佐吉氏は、自動織機を次々と改良し、紡織会社である豊田紡織を上海に拡大するなど成功を収めるなかで、次に挑戦する産業は自動車だと睨んでいた。そこで、1921年(大正10年)に東京大学工学部機械課を卒業したばかりの息子の豊田喜一郎氏と弟の利三郎氏を欧米に視察に行かせている。

 この頃、フォードはT型フォードを量産しており、アメリカは既にモータリゼーションの幕開けのような様相であった。そんな光景に触れた喜一郎氏が、自分もいつか自動車を作ろうとの思いを抱いたであろうことは想像に難くない。

 日本に帰ったあと喜一郎氏は1926年に豊田自動織機製作所を立ち上げ、織機製造で成功を収めるが、自動車の製造にかける夢も膨らませていた。そして自身で、1929年から30年にかけてアメリカに渡り、ハイウエイを自動車が行き交う様を目の当たりにする中で自動車製造への決意を固めていく。

自動織機から自動車へ

 喜一郎氏は、帰国後1933年(昭和8年)には豊田自動織機に自動車部を設置、シボレー車を購入して分解研究を重ねる。喜一郎氏がトヨタ製の第1号車となるA1型乗用車を作ったのはそれから2年後の1935年であった。

 この時代、日本は自動車先進国アメリカの自動車を模倣することで,自分達の技術力を磨いていた。アメリカから遅れること30年,そんな日本がその約30数年後には、小型車でアメリカ市場を席捲することになろうとは、当時のだれもが想像すらしなかったはずだ。

 喜一郎氏は、この時代、自動車製造会社としての基礎を着々と築きあげた。G1型トラック、AA型乗用車の生産などに成功する。1936年には自動車製造事業法が公布され、国の自動車製造の許可が、トヨタ(この頃トヨタは車名をタに濁点のあるトヨダからトヨタに改めた。)と日産に下る。

 1937年には、トヨタ自動車中興の祖となる甥の豊田英二氏を豊田自動織機に入社させた。喜一郎氏は英二氏に自動車製造に専念することを命じる。また、当時GMで販売を担当していた神谷正太郎氏を招き、いち早く県単位に販売会社を設立し、販売体制を作り上げた。 

「トヨタ自動車工業株式会社」の誕生

 1937年にはトヨタ自動車工業を設立(初代社長は豊田利三郎氏)、1年前に取得していた拳母町(今の豊田市)の工場で、軍用トラックが中心であるが、生産を拡大していく。しかし急ごしらえの日本の自動車はよく故障をした。

 また、トヨタと日産の部品の規格が違うため、戦地で故障したとき修理が効かないなど、苦情が殺到し、中国まで赴くなど苦労の連続であった。しかし生産技術の面では、喜一郎氏は拳母工場で、在庫を持たないジャストインシステムを考案し、効率生産への道を開いた。

 また、豊田英二氏も,製造する部品の規格統一のために、ポンド・ヤード法からメートル法への転換を主導し今日のJIS規格の基を築いた。日本の自動車生産の生産技術は戦時中にも着実に向上していた。

   喜一郎氏は、生産から販売後の修理まで、常に陣頭指揮に立ち、技術者や工員たちとともに油にまみれて現場で働いた。喜一郎氏にとっては,ともに自動車製造にかかわる社員、仲間たちは「家族」同様だったのである。

 

終戦からの再出発と挫折

 戦争が終わり,振出しに戻ったような日本ではあったが、戦前、戦中に築かれた産業基盤が喪失されていたわけではなく、終戦直後から、復興に向けて一気に走り出した。その中で、自動車産業は、トヨタ、日産、いすゞが中心となり、急速に生産を復興していく。

 トヨタは、神谷氏がいち早く販売網を再構築していたことから、販売を伸ばしていくが、戦後の超インフレを収めるための「シャウプ勧告」そして「ドッジライン」がひかれると、極端なデフレとなり、販売した車の代金回収が滞り、会社は危機的状況に陥ることになる。 

労働組合結成

 一方で労働組合はどうか。日本では戦時中すべての労働組合は、産業報国会に統一されていたが、終戦後、占領軍(GHQ)により、産業報国会は解散させられた。日本全体は民主化政策で生まれ変わり、労働組合が次々と再結成される。終戦からわずか4か月後の昭和21年1月には全国で1,500を超す労働組合数となった(年末には18,000組合580万組合員となる)。

 トヨタ自動車でも若い世代が中心となり、昭和21年1月19日、労働組合を結成した(トヨタ自動車コロモ労働組合)。しかし、産業別組織はどうするのかとか、上部団体にははいるのか、などを巡り、トヨタ、日産、いすゞの間で路線対立の議論となる一方、各社の業績悪化による、給料の遅配欠配、人員整理の不安など若い労働組合は、次々と厳しい試練に直面することになる。

 

トヨタ労組パイオニア達の選択

 労組結成にあたり、トヨタ労組はその後の進路を決定づけるような選択を二つしている。私は、この二つの選択がその後のトヨタ労組の運動路線を大きく特徴づけることになったと思っている。その二つとは。

 一つは、他の自動車組合もそうであったように、工職一体(現場労働者とホワイトカラーの別なく一つの組合として)で組織したこと。欧米では、ブルーカラーとホワイトカラーは単組も産別も別である。日本でも産業によっては現場だけで組織された組合も多かった。

 いま一つは、委員長、書記長など三役を1年ほどで次々と交代するようにしたことであった。特に後者の方は、その方が民主的な運動が可能になるとの、当時の若いリーダーの見識があった。
 なぜそんなことが分かるのかといえば、私は、当時の委員長の肉声でそれを聞いているからである。

 私が、労組に専従した1984年ころ、トヨタの初代委員長も25年闘争時の委員長もみな70歳台で健在であった。トヨタ労組は、年に1回「歴代委員長会議」という懇談会をやっていた。そこには、意気軒高な歴代委員長が出席し、事務局を務めた私は彼らの薫陶を直接受ける幸運に恵まれたのである。

 幸運というのは、私が書記長になったころから、高齢の委員長らは順次出席ができなくなってしまい、私の後輩達は、もう肉声を聞く機会には恵まれなかったからである。
 私は、この財産があるからこそ、トヨタの労使関係を書き記す気持ちになれたのだ。

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