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労使宣言締結(上)

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労使宣言締結(上)

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第5回 労使はこうしてトヨタをつくりあげた

トヨタの労使関係第2の原点

 トヨタ労組に専従すると、実務に携わる前に約1か月間、先輩たちの議論を傍聴したり、労働法の基礎を勉強したり、労組の歴史や運動論を勉強する信念強化訓練のような5日間ほどの合宿をする(このあたりのことは、後日もう少し詳しく書く)。

 この信念強化の一番大事な部分が、トヨタ労組の運動理念である「労使相互信頼」(単純な「労使協調ではない」と教えられる)と「車の両輪」について深く理解することであった。

 これら二つの言葉なり理念は、労働組合の綱領にも謳われているが、トヨタ労使は昭和37年2月24日、当時の社長であった中川不器夫氏とトヨタ労組の委員長、加藤和夫氏との間で交わした「労使宣言」の中でこれを労使関係の基本理念として再確認した(「労使宣言」本体は本稿(下)で紹介する)。

 この労使宣言は、日本の自動車産業が迫り来る貿易自由化の試練に対し、労使が手を携えてこれを乗り越えていこう、という宣言である。そこには当時日本の労働側が否定的であった生産性向上運動(当時の組合は生産性運動に対し、人減らし合理化の運動ではないかという疑念を持っていた)に、労働組合が自主的に協力するということが書かれていたから、総評系の組合からは批判の目で見られたものだ。

 しかし、今、じっくりと読み返すと、企業内労働組合と会社とが目指すべき運動として、あるべき方向を示したものであることがわかる。

会社が熱望した「組合員の自主的協力」

 この労使宣言は、今でこそその先見の明が称賛されるが、当時は組合内にも世間にあったような批判的な見方もあり、組合側がこぞってその締結を望み、働きかけたのではないようだ。

 事実、この宣言に署名をした加藤和夫氏は委員長会議懇談の席で、私たちに、「あの宣言の文言は主に会社が考えた。考え方は組合も同感だったが、堂々と胸を張ってやったものでもなかったなあ」と言われた。

 もちろん他の委員長も含め、宣言の趣旨には賛同し、その実践を心に誓ったからこそ署名をしたのだとおっしゃっている。しかし、当時の組合員は、退職金が削減されるなど、自分たちの献身的努力の割には、労働条件では報われていないと感じていたから、世間から批判の強かったこの宣言を、労働組合としても声を大に外部に宣伝することはしなかった。

 実際、当時の組合機関紙も労使宣言の締結をそれほど大きな出来事として取り上げていない。そんな扱いを見るにつけ、組合執行部の複雑な気持ちが推し量れる。

 前にも書いたが、トヨタ労組は、組合三役の地位を「お前のやり方ではあかん、今度は俺がやる」とばかりに、オープンに言い合い、かつ短期で交代していた闊達な労働組合であった。おそらく、賛否の議論は相当渦巻いたであろうことが想像できる。

 しかし、経営にしてみれば、この頃生産台数が2年毎に倍増する中、昭和25年大争議を招いた失敗を教訓に、人を増やさず、生産性を上げるために、労働組合の協力は欠かせなかった。その思いを労働組合として受け止め、批判を恐れず前に進もうと宣言への署名をした当時のリーダーの気持ちには心に迫るものがある。

労使宣言締結の位置づけ

 歴史的な出来事というのは、後世になって初めて真の意義がわかるものである。その意味で、トヨタ労使にとって、昭和37年2月24日が、戦後から今日までのそれぞれの発展過程において、どのような時点であったかを考えてみる必要があるだろう。

 極めて個人的価値判断によるものだが、私はトヨタ労組としての成長発展は、5つの時代に区分できると考えている。

 まず第1期は結成から昭和25年の大争議終結までの黎明期である。

 戦時の圧殺から解放され、意気盛ん、かつ闘争的時代だった。リーダーも若かった。しかし、若く明晰なリーダー達は、当時の政党運動に流されることなく、日本の自動車産業が自立復興していくためにはどうすればいいか、組合なりに考え、始終会社に経営施策を提言していた。当時の機関誌には「生産復興」の文字が躍っている。

 次の第2期は、争議終結から昭和37年の全国自動車の結成までの揺籃期(揺れ動きながら成長したという意味に於いて)。

 その前半期は全自3社(日産、いすゞ、トヨタ)共闘で、産別運動が追求され、政治的色彩も濃く、会社との衝突も激しかった。しかし会社は、朝鮮特需で一息ついたものの、企業基盤が確立したという状況には程遠かったから、思うような賃金も獲得できなかった。その過程で昭和28年に日産争議が第2組合の台頭により、全自側の敗北に終わる。全自は昭和29年12月に解散する。

 昭和30年になると「もはや戦後ではない」が流行語となるが、はじめは不況で、トヨタも操短があった。組合は再び人員削減をさせてはならじと生産に協力した。しかし、厳しい労働の割には報われていないとの職場の声は強かった。

 30年代中頃には岩戸景気で経済が活性化する中で、貿易自由化が目前に迫る。組合は国産自動車政策を働きかけようと、産別再結集を主導し、昭和37年に全国自動車結成にこぎつけた。このとき日産労連は参加せず産別は分裂の様相を示す。

 自動車が一つの産別になるのはここから10年かかることになる。トヨタ労組は、全国自動車の中核として産業政策を主導しつつ、職場の厳しい働き方の改善を会社に迫りながら、組織としての力量を増していく。

 第3期は、昭和37年から47年ころまでの成長期。

 組合は労使宣言の理念を背景に、それを実践するために労働組合としてどう活動すべきか、模索しながら活動している。そして、組織が力を蓄えるためには指導者が毎年替わるようではダメだと、委員長の任期も2年そして4年と延びていく。昭和47年には全トヨタ労連を結成、自動車総連も結成される。

 この時代にトヨタ生産方式が形の上で確立していくが、労働組合は、トヨタグループを一つの労連にまとめることでこれを側面から支えることになる。

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 第4期は、昭和47年から平成までの安定拡大期。
 このうち11年間、トヨタ労組の中興の祖といえる梅村志郎氏が11年間委員長として在任し、組合組織の運営、労使関係、労連、産別との関係など、本欄でこれから書いていく多くの組合活動基盤、理念を確立された。

 昭和57年にはトヨタ自工自販が合併し、労働組合も合併し、5万人近い単組となった。
 労働運動は、これまでの総評主導の国民春闘から、IMF・JC(金属労協)が賃上げの相場形成役として台頭し、ストなし路線が定着していく。

 労働運動はナショナルセンターの統一をめざし民間中心に動きを強め、顔合わせから心合わせへと動いていく。純中立であったトヨタは梅村氏を中心にその流れを支えた。

 第5期は、平成20年頃までの成熟期。
 バブルは崩壊したが、組合は「豊かさ」を求めるという言葉をスローガンに立て労働時間短縮に成果をあげた。

 自動車総連は結成以来カリスマ的力を発揮してきた塩路一郎氏が昭和61年に引退し、その後トヨタの得本輝人氏が12年間会長を務めた。労働運動は、昭和61年に連合が結成され、安定期に入り、その後の民主党政権誕生(平成20年)まで華やかな時代を経験する。私はこの「良き時代」を単組、産別の役員として経験したわけで、恵まれた労組役員だったと思っている。

次号へ続く

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