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「開かれた企業であれ」(終章にかえて)

【労使はこうしてトヨタをつくりあげた】

加藤裕治先生のプロフィールはこちら

(2017年9月)

〇「トヨタ絶望工場」

 昭和50年代前半頃まで、トヨタはマスコミ嫌いであった。マスコミ嫌いだけではなく、トヨタを研究しようとする学者たちをも極力遠ざけていた。トヨタが三河地方にある名もない自動車会社であった昭和30年代であれば、マスコミも学者もトヨタに大して注目をしていたわけではなかったから、トヨタが彼らを嫌ったとしても、そのこと自体が大きな問題になることはなかった。
 しかしある「事件」が起こったことにより、それ以降、トヨタ自動車がトヨタ対マスコミという敵対構造でマスコミを捉えざるを得なくなるのである。
 それは、昭和48年のことであった。「事件」とはルポライター鎌田慧氏による単行本「トヨタ絶望工場」が出版されたことである。
 このルポは、内容的には鎌田氏自身が季節工として3ヶ月間トヨタで働いた実体験をもとに書かれたものだったのだが、次の三つの理由で社会から負の注目を集めることとなってしまったのであった。

 第一の理由は、当時の社会風潮である。1960年代から70年代を通じ、知識層には社会主義史観が広く支持されていた。それによれば「企業は労働者を搾取するもの」という見方になるが、この本は、それを見事に内側からえぐり出したとして、多くの読者の共感を得たのだった。
 二つ目は、トヨタのプレゼンスの高まりとタイミングが合致してしまったことである。それまでは愛知三河で効率よく自動車を作っている一会社に過ぎなかったのが、この頃には日本でトップクラスの利益を挙げる企業となり、世間の注目を集め始めていた。
 そしてまた、ちょうどこの頃、豊田英二氏が日本自動車工業会の会長を務めており、「交通事故死者激増」「排ガスによる公害問題」といった自動車産業批判の矢面に立たされ、特に排ガス規制に対して、トヨタの消極姿勢が批判されていたということがあった。
 そして三つめは、オピニオンリーダーたる学者たちの「トヨタ観」と符丁が合ってしまったことがある。トヨタの急速な成長と利益増大は、トヨタ生産方式が生み出したものでもあったわけだが、東大社研などの一部の学者たちは、この頃盛んに、トヨタ生産方式は必要以上に人間を絞り上げるシステムであるという研究論文などを発表していたのだった。

〇マスコミ嫌いのトヨタ

 こうした不幸が重なったことで、トヨタ自動車は、定まった記者会見の場以外ではなるべくマスコミとは接触しないようになった。トヨタを冠した記事は、経済面や社会面(特に排ガス対策では、当時CVCCの発明で世の高い評価を得た本田に比べ、トヨタの慎重姿勢は、マスコミからも叩かれた)で常に紙面を飾っていたし、春闘時ともなると、トヨタの決着見通しが一面に大きく扱われた。
 だから、一般の人から見ると、トヨタがマスコミを避けているとは感じられなかったと思う。しかし、当時の記者に聞くと、「トヨタの役員は絶対にぶら下がり取材などは許さないし、個人的見解など聞こうものなら、貝になってしまったもんだ。社長が気さくに取材に応じてくれる開けっぴろげな日産とは大違いだった」と、述懐した。
 また、左翼系の研究者のヒアリングは絶対にOKしなかったし、工場見学も門戸を閉ざしていた。だから、彼らは内部事情を積極的に「内部告発的」にしゃべる者の取材を題材に実態をシミュレーションせざるを得なかった。そうすると、実際よりも酷く現場実態が描かれたりする。こうした状況が、昭和60年代初頭まで続いたと思う。

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〇事実の重み

 私は労組の中における役割柄、マスコミの皆さんとのお付き合いは、かなり深くさせてもらった。その良い面も悪い面も見てきた。企業や労働組合という組織にとって、マスコミの行動で一番困るのは、予断に基づいた取材と記事作りが往々にしてなされることである。
 社会的風潮が、企業や労組に批判的なとき、その流れを加速するかのように記事が「作られて」いくことがある。ある種の「空気」が出来上がってしまうと、それに反することを強調しても取り上げてもらえないもどかしさは、マスコミと接するポジションにいた人間なら誰でも味わったことがあるのではないだろうか。
 しかし、メデイアというのは、ある意味でその国の市民とおおむね平仄が合っているものだ。市民が知りたいと考えている情報を秘匿すると、大抵はマイナスイメージで捉えられる。
 私自身は、企業や労働組合は、できるだけメデイアとオープンに付き合ったほうがいいと思っている。社会が微妙に揺れている問題については、「抑える」のではなく「正直に」ありのままを伝えて、市民に評価してもらったほうが、却っていい結果になることが多い。
 社会を構成しているふつうの人は、そのふつうの人が思っている何倍も思慮深く、まともに物事を判断する力を持っている。私は、司法修習で裁判員裁判の評議を傍聴していてそれを確信した。情報を流す側が、変に事実を曲げたら、事実認定は確実に狂う。市民に対しては、常に事実を伝えるべきだ。

〇トヨタ自工・自販合併

 トヨタのそのような内向きの社風が変わったのは、トヨタ自工と自販の合併がきっかけだった。この合併は、外には対等合併と公表していたが、実際は自工が自販を吸収した形であった。
 ほとんどの自販の役員は関連会社に出され、労働条件も一部を除き、自工の水準に合わせられた(自販の35歳くらいの人で、年収が約100万円くらい下がった)。
 しかし、合併で自工が変わった点もいくつかあった。その一つが、マスコミとの付き合い方である。ひたすらモノづくりに精を出していればよかった自工に比べ、自販はお客様に近いところにいた。そして新生トヨタの社長は、合併前に自販の社長を務め、ディーラーの社長たちに揉まれ、世間に目を向けるようにならざるを得なかった豊田章一郎氏だったこともあり、トヨタの役員たちも少しずつ外を向き始めた。
 この頃私は労働組合の専従となり、外部への窓口となる企画局を担当していた。会社に取材を断られた東大社研の先生や北大でトヨタ研究をしていた学者が、労働組合に古い資料に基づいた話を聞きに来た。
 私は上司である局長、書記長に相談し、会社には報告するのみで、これらの取材を受け入れた。彼らとは意見交換もしたが、よく説明すればトヨタ生産方式が決して人間性無視の、人を搾取する生産方式ではないことが分かってもらえた。取材の結果発表された論文も送ってくれたが、それまでのようなトヨタ悪玉論は影を潜めていた。
 さらに、私たちは労働組合の非専従役員である職場委員長の他労組交流で、それまではトヨタグループ各社としか交流してなかったのを改め、本田や三菱とも交流するようにした。職場委員長には、例えば本田の労働時間に対する厳しい取り組みなどが分かり、とても刺激になったと良い評価を得た。
 こうした労使の変化を加速したのは、豊田章一郎氏の外向きの姿勢だった。経団連の会長を務め、社会貢献活動に積極的に取り組まれた。また、省エネが企業のテーマになる中、驚異的な短期間でハイブリッドカーを熟成し、初代プリウスを「札束を張り付けた車」といわれる赤字販売で発売したことも、社会性を持った会社イメージを作ったといえる。
 そうした中で、奥田碩氏が社長になり、その快活かつオープンな姿勢がトヨタのイメージを大きく変えることになった。労働組合も春闘時には、積極的に記者会見をセットするなど、情報公開に努めた。
 このようにして21世紀を迎える頃には、マスコミ嫌いのトヨタなどとは誰も思わない開かれた会社イメージがひろがった。

〇再び労使宣言に立ち返る

 そもそも労使宣言には「企業の公共性を自覚し、社会・産業・大衆の為に奉仕するという精神に徹する」と書かれている。豊田佐吉翁は「障子を開けてみよ、外は広いぞ」と言われた。
 本来トヨタは、社会に開かれた会社であることが社是であった。その原点に今は還っただけとも言える。
 平成28年12月の中旬のこと、テレビで豊田章男さんが、タレントのマツコ・デラックスを東富士研究所に招いて、レース関係の開発現場を紹介する番組をやった。章男さんは水を得た魚のようにマツコさんと共演していた。観てくれた視聴者は、トヨタはこんなにも明るい会社であったのかと驚いたはずである。
 トヨタ絶望工場の発売から40年、トヨタは本当に開かれた会社になってきたと思う。そして今後もその姿勢を貫いてほしいと心から願う次第である。

 「開かれた会社にしたい」という私自身の願いは、今や見事に実現している。その報告を最終章として、私の歴史の振り返り作業をひとまず終えようと思う。

 長期間にわたりこのコラムにお付き合いいただいたプライムコンサルタントの読者の皆さんに心から感謝しつつ、このコラムを閉じさせていただこうと思う。

*今回をもちまして加藤裕治先生による【労使はこうしてトヨタをつくりあげた】の連載は完了いたします。
長い間ご愛読いただきありがとうございました。 (編集部)

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